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おくのほそ道
月日
月日は永遠に歩みつづける旅人であり、行き交う年もまた旅人である。舟の上に生涯を浮かべる者も、馬の口を取って老いを迎える者も、日々が旅であって、旅を住みかとしている。昔の人にも、旅の途中で死んだ者が多い。私もいつの年からか、ちぎれ雲を送る風に誘われて漂泊の思いがやまず、海辺をさすらい、去年の秋には川のほとりのあばら家に帰って蜘蛛の古巣を払った。やがて年も暮れ、春が立って霞の立ちこめる空を見るうちに、白河の関を越えたいと、そぞろ神が取りついたように心が落ち着かず、道祖神に招かれている気がして何も手につかない。股引の破れを繕い、笠の緒を付け替え、三里に灸を据えるそばから、もう松島の月が何より心にかかっていた。住んでいた家は人に譲り、杉風(さんぷう)の別宅に移るときに詠んだ。この草ぶきの家にも、住む人の替わる時が来た。次の住人のもとでは、雛を飾る家になることだろう。この句を発句とする表八句を、庵の柱に掛けておいた。
弥生
弥生も末の七日、明け方の空はおぼろにかすみ、月は有明の月で光は薄れているものの、富士の峰がかすかに見えて、上野や谷中の花の梢を、また見られる日はいつかと心細い。親しい人々はみな前の晩から集まって、舟に乗って送ってくれた。千住という所で舟を上がると、この先三千里という思いが胸にふさがって、幻のようにはかないこの世の分かれ道に、別れの涙をそそいだ。そこで詠んだ。春が行こうとしている。鳥は啼き、魚の目にも涙が浮かんでいるようだ。これを矢立の初めの句として歩き出したが、道はいっこうにはかどらない。人々は道に立ち並んで、後ろ姿の見えるかぎりはと見送ってくれているのだろう。
草加
ことしは元禄二年にあたるだろうか。奥羽への長い行脚をふと思い立ち、はるか遠い空の下で白髪の恨みを重ねる苦労は覚悟のうえ、話には聞きながらまだ目に見たことのない土地へ、もし生きて帰れたならと、あてにならない望みを先にかけて、その日はようやく草加という宿にたどり着いた。痩せた骨ばかりの肩にかかる荷が、まず苦しい。ただ身一つでと出立したのだが、紙子一枚は夜の寒さの防ぎに、浴衣、雨具、墨や筆のたぐい、あるいは断りがたい餞別の品などは、さすがに捨てるわけにもいかず、道中の悩みの種となるのはどうしようもない。
室の八島
室の八島に参詣した。同行の河合曾良(そら)が言う。「この神は木の花さくや姫の神と申し上げ、富士と一体である。戸のない室に入って火を放ち、その誓いの火の中で火々出見(ほほでみ)の尊がお生まれになったことから、室の八島と申す。歌にこの地の煙を詠む習わしがあるのも、この謂れによる」と。また、このしろという魚を食べることを禁じる縁起の趣が、世に伝えられていることもあった。
仏五左衛門
三十日、日光山の麓に泊まる。宿の主人が言うには、「私の名は仏五左衛門という。何事も正直を旨とするので、人がそう呼んでくれる。一夜の草の枕だが、気を楽にしてお休みなさい」と。どのような仏がこの濁った世の塵の中に現れて、このような僧形の、乞食巡礼にも等しい者を助けてくださるのかと、主人のすることに気をつけて見ていると、ただ無知で無分別、ひたすら正直一途の者である。剛毅木訥は仁に近いというが、まさにそのたぐいで、生まれつきの清らかな性質こそ、何より尊ぶべきものだ。
日光
卯月朔日、御山に参拝する。昔はこの御山を「二荒山」と書いたのを、空海大師が開基のときに「日光」と改められた。千年の未来を見通されたのだろうか、いま、この御光は天下に輝き、恵みは国の隅々にあふれて、四民の住まいは穏やかである。これ以上は恐れ多いので、筆を置く。一句。ああ尊い。青葉若葉に降りそそぐ、日の光よ。黒髪山は霞がかかって、雪がまだ白い。曾良が詠んだ。黒髪を剃り捨てて墨染に替えた身で、黒髪山のふもと、折しも衣替えの日を迎えた。曾良は河合氏で、惣五郎といった。芭蕉庵のすぐ近くに軒を並べて、私の炊事の労を助けてくれていた。このたび松島や象潟の眺めをともにすることを喜び、また旅の難儀をいたわろうと、旅立ちの暁に髪を剃って墨染に姿を変え、惣五を改めて宗悟とした。それでこの黒髪山の句がある。「衣更」の二字に力がこもって聞こえる。二十余丁山を登ると滝がある。岩の洞の頂から飛ぶように流れ落ち、百尺の高さから、千の岩に囲まれた碧の淵に落ちている。岩窟に身をひそめ入って滝の裏から見るので、裏見の滝と言い伝えられている。一句。しばらくは、この滝に身を籠めよう。夏の初めに。
那須
那須の黒羽という所に知人がいるので、ここから野を越えて、まっすぐな道を行くことにした。遥かに一つの村を見当てて行くうちに、雨が降り、日も暮れた。農夫の家に一夜を借り、明ければまた野中を行く。そこに放し飼いの馬がいた。草を刈る男に嘆き寄って頼むと、田舎の男とはいえ、さすがに情を知らないわけではない。「どうしたものか。しかしこの野は道が縦横に分かれていて、不慣れな旅人は道を踏み違えそうで心配だから、この馬の止まる所で馬を返してください」と貸してくれた。小さい者がふたり、馬のあとを慕って走ってくる。ひとりは幼い娘で、名を「かさね」という。聞き慣れない名がやさしく響いたので、曾良が詠んだ。かさねとは、八重に咲く撫子の名であるにちがいない。やがて人里に着いたので、代金を鞍つぼに結びつけて馬を返した。
黒羽
黒羽の館代、浄坊寺なにがしの方を訪ねた。思いがけない来訪を主人は喜び、日夜語り続け、その弟の桃翠などという人が朝夕まめに訪ねてきて、自分の家にも連れて行き、親類の方にも招かれて日を過ごすうちに、ある日は郊外を逍遥して犬追物の跡を一見し、那須の篠原を分け入って玉藻の前の古い墓を訪ねた。それから八幡宮に参詣する。那須与一が扇の的を射たとき、「ことにわが国の氏神、正八幡」と誓ったのもこの神社であると聞けば、ありがたさもひとしお身にしみる。暮れれば桃翠の家に帰る。修験光明寺という寺がある。そこに招かれて、行者堂を拝んだ。一句。夏山を前に、行者の高足駄を拝む。この旅の門出である。
雲岸寺
この国の雲岸寺の奥に、仏頂和尚が山ごもりした跡がある。和尚はかつて、縦横五尺にも足りない草の庵、それさえ結ぶのが悔しい、雨さえなかったならば、という意味の歌を松の炭で岩に書き付けた、といつだったか話してくださった。その跡を見ようと雲岸寺に杖を運ぶと、人々が進んで誘い合い、若い人も多く、道中にぎやかに騒ぐうちに、いつのまにかあの麓に着いた。山は奥深いけしきで、谷道が遥かに続き、松や杉は黒々と、苔から水がしたたって、卯月の空がいまなお寒い。十景の尽きる所で、橋を渡って山門に入る。さて、あの跡はどのあたりかと後ろの山によじ登ると、石の上の小さな庵が、岩窟に寄せかけて結んである。妙禅師の死関、法雲法師の石室を見るようである。きつつきさえ、この庵だけは破らずにおくのだろう、夏木立の中で。と、とっさの一句を柱に残した。
殺生石
ここから殺生石に行く。館代が馬で送ってくれた。この馬の口を引く男が、「短冊をいただきたい」と乞う。風流なことを望むものだと、一句を書き与えた。広い野を横切るように馬の首を引き向けてくれ、ほととぎすの声のする方へ。殺生石は、温泉の湧き出る山陰にある。石の毒気はまだ消えず、蜂や蝶のたぐいが、砂の色が見えないほど重なって死んでいた。
遊行柳
また、歌に「清水流るる」と詠まれた柳は蘆野の里にあって、田のあぜに残っている。この地の郡守、戸部なにがしが「この柳をお見せしたいものだ」と折にふれて言ってくださっていたのを、どのあたりにあるのだろうと思っていたが、今日まさに、その柳の陰に立ち寄ったのだった。一句。田一枚の早苗が植え終わるまで柳の陰に立ち尽くし、ようやくそこを立ち去った。
白河の関
心もとない日数が重なるうちに、白河の関にかかって、ようやく旅の心が定まった。「なんとかして都へ知らせたい」と昔の人が便りを求めたのも、もっともである。なかでもこの関は三関の一つで、風雅の人々が心をとどめてきた。秋風の歌を耳に残し、紅葉の歌を面影にすれば、いま目の前の青葉の梢もなお趣が深い。卯の花の白さに茨の花が咲き添って、雪の中を越える心地さえする。昔の人が冠を正し、衣装を改めて関を越えたことなどは、藤原清輔の筆にも書きとどめられているという。曾良が詠んだ。卯の花をかざしにして、これをこの関越えの晴れ着としよう。
須賀川
そうこうして関を越えて行くうちに、阿武隈川を渡る。左に会津根が高く、右に岩城・相馬・三春の庄があり、常陸・下野の地との境には山が連なる。影沼という所を行くが、今日は空が曇って、物の影は映らない。須賀川の宿駅に等窮(とうきゅう)という者を訪ねると、四、五日引きとめられた。まず、「白河の関をどのように越えてきたか」と問われる。長旅の苦しみに身も心も疲れ、また風景に魂を奪われ、懐旧の思いに腸を断たれて、ろくに句も思いめぐらせなかった。それでも詠んだ。関を越えて耳にした奥州の田植え歌、あれこそ、この旅の風流の初めだった。何も詠まずに越えてしまうのもさすがに残念で、と語ると、脇、第三と続けて、三巻の連句となった。この宿場のかたわらに、大きな栗の木陰を頼りにして、世を厭う僧がいた。橡を拾う深山の暮らしもこのようであったかと、しんみり思われて、紙に書きつけた。その言葉に、栗という文字は「西」の「木」と書いて西方浄土に縁があるといい、行基菩薩は一生、杖にも柱にもこの木を用いられたとか、とある。一句。世の人の目にとまらない花もある。この軒端の栗の花のように。
あさか山
等窮の家を出て五里ばかり、檜皮の宿を離れると、あさか山がある。道から近い。このあたりは沼が多い。かつみを刈る時期もやや近づいているので、どの草を花かつみと言うのかと人々に尋ねたが、知る人はまったくない。沼を訪ね、人に問い、「かつみ、かつみ」と尋ね歩くうちに、日は山の端にかかってしまった。二本松から右に折れて、黒塚の岩屋を一見し、福島に泊まった。
しのぶ
明ければ、しのぶもじ摺りの石を訪ねて、忍ぶの里に行く。遥かな山陰の小さな里に、石は半ば土に埋もれてあった。里の子どもが来て教えてくれた。「昔はこの山の上にあったのですが、行き来の人が麦を荒らしてこの石で摺りを試すのを里人が憎んで、この谷に突き落としたので、石の面が下向きに伏しているのです」と言う。そういうこともあるのだろうか。一句。早苗を取る娘たちの手もとに、昔のしのぶ摺りの手ぶりがしのばれる。
佐藤庄司
月の輪の渡しを越えて、瀬の上という宿場に出る。佐藤庄司の旧跡は、左の山際、一里半ほどの所にある。飯塚の里の鯖野と聞いて、尋ね尋ね行くうちに、丸山という所で尋ね当てた。これが庄司の旧館である。麓に大手門の跡がある、などと人の教えるのにまかせて涙を落とし、またかたわらの古寺に、一家の石碑が残っている。中でも二人の嫁の墓標が、まず哀れを誘う。女の身でありながら、けなげな名を世に残したものだと、袂を濡らした。涙を誘う「墜涙の碑」も、遠い異国の話ではなかった。寺に入って茶を所望すると、ここには義経の太刀と弁慶の笈を留めて、寺宝としていた。一句。笈も太刀も、五月の節句には紙幟とともに飾るがよい。五月朔日のことである。
飯塚
その夜は飯塚に泊まる。温泉があるので湯に入って宿を借りたが、土間に莚を敷いただけの、みすぼらしい貧しい家である。灯もないので、囲炉裏の火影に寝床を設けて横になった。夜に入ると雷が鳴り、雨がしきりに降って寝ている上から漏り、蚤や蚊に刺されて眠れない。持病まで起こって、気を失わんばかりになった。短い夜の空もようやく明けたので、また旅立つ。それでも夜の名残が尾を引いて気が進まず、馬を借りて桑折の宿駅に出た。遥かな行く末をかかえた身に、こんな病では心もとないとは思うものの、辺土をめぐる行脚の旅、身を捨てた無常の観念、道で死ぬならそれも天命であると、気力をいくらか取り直し、道を縦横に踏んで、伊達の大木戸を越えた。
笠島
鐙摺、白石の城を過ぎ、笠島の郡に入ったので、藤中将実方の塚はどのあたりだろうと人に問うと、「ここから遥か右に見える山際の里をみのわ・笠島といい、道祖神の社や、形見の薄が今もあります」と教えてくれた。このごろの五月雨で道がひどく悪く、体も疲れていたので、よそながら眺めやって通り過ぎたが、蓑輪、笠島という名も五月雨の折にふさわしいと、一句。笠島はどのあたりか。この五月のぬかるみ道では、訪ねる足もままならない。岩沼に泊まる。
武隈
武隈の松には、まさに目の覚める心地がした。根は土際から二木に分かれて、昔の姿を失っていないことが知られる。まず、能因法師のことが思い出される。その昔、陸奥守として下った人がこの木を伐って、名取川の橋杭にしたことなどがあったからだろうか、能因は「松はこのたび跡もなし」と詠んでいる。代々、あるいは伐り、あるいは植え継ぎなどしてきたと聞くが、いままた千年の姿が整って、めでたい松のけしきであった。「武隈の松をお見せしてくれ、遅桜よ」と、挙白という者が句を餞別にくれていたので、これに答えて詠んだ。江戸の遅桜から三月越しに、いま桜ならぬ二木の松を、この目で見ている。
宮城野
名取川を渡って仙台に入る。軒にあやめを葺く日である。旅宿を求めて、四、五日逗留した。ここに画工の加右衛門という者がいる。いくらか心ある者と聞いて、知り合いになった。この者が、「年来、所在のはっきりしない名所を調べておきました」と言って、一日案内してくれた。宮城野の萩は茂り合って、秋のけしきが思いやられる。玉田、横野を過ぎ、つつじが岡はあせびの咲くころである。日の光も漏らさぬ松の林に入ると、ここを木の下と言うのだそうだ。昔もこのように露が深かったからこそ、「みさぶらひ御笠」と詠まれたのである。薬師堂、天神の御社などを拝んで、その日は暮れた。なお加右衛門は、松島や塩釜のあちこちを絵に描いて贈ってくれた。さらに、紺の染緒をつけた草鞋二足を餞別にくれた。こういうところにこそ、風流に徹した人の真価が現れるのである。一句。あやめ草を足に結ぼう、草鞋の緒として。
壺の碑
あの絵図にまかせてたどって行くと、おくの細道の山際に十符の菅がある。今も毎年、十符の菅菰を作って国守に献上するという。壺の碑は、市川村の多賀城にある。その石碑は高さ六尺余り、横三尺ほどか。苔を穿って、文字がかすかに見える。四方の国境までの里数を記したうえで、「この城は、神亀元年、按察使鎮守府将軍大野朝臣東人の置く所なり。天平宝字六年、参議東海東山節度使、同じく将軍恵美朝臣獦、修造して十二月朔日」という銘文がある。聖武皇帝の御代にあたる。昔から詠み置かれた歌枕は多く語り伝えられているとはいえ、山は崩れ、川は流れを変えて道が改まり、石は埋もれて土に隠れ、木は老いて若木に代わり、時が移り代が変じて、その跡が確かでないものばかりであるのに、ここに至って、疑いもない千年の記念が、いま目の前にある。古人の心を、まのあたりに読む。行脚の功徳の一つ、生きてあることの喜びに、旅の労苦も忘れて、涙も落ちるばかりだった。
末の松山
それから、野田の玉川、沖の石を訪ねる。末の松山は、寺が建てられて末松山という。松の間はどこも墓原で、翼を交わし枝を連ねるという契りの果ても、ついにはこうなるのかと悲しさが増すうちに、塩釜の浦で入相の鐘を聞いた。五月雨の空がいくらか晴れて、夕月がかすかにかかり、籬が島も間近である。漁師の小舟が漕ぎ連なって、魚を分ける声々を聞くと、「綱手かなしも」と詠んだ昔の人の心も知られて、いっそう哀れが深い。その夜、盲目の法師が琵琶を鳴らして、奥浄瑠璃というものを語った。平家琵琶でもなく、幸若舞でもなく、ひなびた調子を張り上げて、枕近くで騒がしかったが、さすがに辺土の遺風を忘れずに伝えているのは、殊勝なことに思われた。
塩釜
早朝、塩釜の明神に参詣する。国守が再興されて、宮柱は太く、彩色の垂木はきらびやかに、石の階段は高く重なり、朝日が朱塗りの玉垣を輝かせている。このような道の果て、辺土の地に至るまで神の霊験があらたかにいらっしゃるのは、わが国の美風であると、まことに尊い。神前に古い宝灯がある。鉄の扉の面に「文治三年、和泉三郎寄進」とある。五百年来の面影がいま目の前に浮かんで、なんとも珍しい。かの和泉三郎は、勇義忠孝の士である。その誉れ高い名は今に至るまで、慕わぬ者がない。まことに、人はよく道に励み、義を守るべきである。名声もまた、それに従うのだと言われる。
松島
日はすでに午に近い。船を借りて、松島に渡る。その間二里余り、雄島の磯に着く。いまさら言い古されたことではあるが、松島は日本第一の景勝であって、およそ洞庭や西湖にも恥じない。東南から海を入れて、入り江の中は三里、浙江の潮をたたえたようである。島々は数を尽くして、そばだつものは天を指し、伏すものは波に這う。あるいは二重に重なり、三重に畳んで、左に分かれ、右に連なる。背負うものがあり、抱くものがあり、児や孫を愛でるかのようである。松の緑は濃やかに、枝葉は潮風に吹きたわめられて、その屈曲は、おのずから矯めたかのようである。そのけしきは奥深く静かで、美人が顔を装うのにも似る。神代の昔、大山祇のなした業であろうか。この造化の天工を、いったい誰が筆をふるい、言葉を尽くして写しえようか。雄島の磯は、陸続きで海に突き出た島である。雲居禅師の別室の跡や、坐禅石などがある。また、松の木陰に世を厭う人もまれに見えて、落穂や松笠を燻らせた草の庵に静かに住みなしている。どんな人かは知らぬまま、まず慕わしく立ち寄るうちに、月が海に映って、昼の眺めとはまた趣が改まった。入り江のほとりに帰って宿を求めると、窓を開き、二階を作った家で、風と雲の中に旅寝するのは、不思議なまでに妙なる心地である。曾良が詠んだ。松島よ、ほととぎすよ、鶴の身を借りて飛んでほしい。私は口を閉じて眠ろうとしたが、寝られなかった。旧庵を別れるとき、素堂が松島の詩を作り、原安適が松が浦島の和歌を贈ってくれた。袋を解いて、今宵の友とする。さらに杉風、濁子の発句もある。
瑞巌寺
十一日、瑞巌寺に参詣する。この寺は三十二世の昔、真壁の平四郎が出家し、唐に渡って帰朝したのちに開山した。その後、雲居禅師の徳化によって七堂の甍が改まり、金色の壁は荘厳に光り輝いて、仏土を成就した大伽藍となったのである。あの見仏聖の寺はどこだろうと、慕わしく思われた。
石の巻
十二日、平泉を目指し、姉歯の松、緒絶えの橋などを聞き伝えて進むうちに、人跡もまれで、狩人や草刈りが行き来するだけの道を、どこがどこともわからず、ついに道を踏み違えて、石の巻という湊に出てしまった。「こがね花咲く」と詠んで朝廷に奉った金華山を海上に見渡し、数百の廻船が入り江に集まり、人家は地を争って建ち並び、竈の煙が立ち続いている。思いがけず、こんな所に来てしまったものだと宿を借りようとしたが、宿を貸す人がまったくない。ようやく貧しげな小家に一夜を明かし、明ければまた、知らない道を迷い行く。袖の渡り、尾ぶちの牧、真野の萱原などをよそ目に見て、遥かに続く堤を行く。心細い長沼に沿って、戸伊摩という所に一泊し、平泉に着いた。その間、二十余里ほどと思われる。
平泉
藤原三代の栄耀も一睡の夢のうちで、大門の跡は一里こちらにある。秀衡の館の跡は田野になって、金鶏山だけが形を残す。まず高館に登れば、眼下の北上川は南部から流れてくる大河である。衣川は和泉が城をめぐって、高館の下で大河に落ち入る。泰衡らの旧跡は、衣が関を隔てて南部口を固め、蝦夷を防いだものと見える。それにしても、義経は忠義の臣をえりすぐってこの城にこもったが、その功名も一時のことで、いまは草むらとなっている。「国破れて山河あり、城春にして草青みたり」の詩を思い、笠を敷いて腰を下ろし、時の移るまで涙を落とした。一句。夏草が茂るばかりだ。ここは、つわものたちが功名を夢みた、その夢の跡なのだ。曾良も詠んだ。卯の花の白さに、白髪を振り乱して戦ったという老臣兼房の姿が見えるようだ。かねて耳を驚かせていた二堂が、開帳していた。経堂は三将の像を残し、光堂は三代の棺を納め、三尊の仏を安置する。七宝は散りうせ、珠の扉は風に破れ、金の柱は霜や雪に朽ちて、とうに頽廃して空しい草むらとなるはずのところを、四面を新たに囲み、甍を覆って、風雨をしのいでいる。しばらくは千年の記念となったのである。一句。五月雨も、この堂だけは降り残したのだろうか。光堂は、いまも光を失わずにある。
尿前の関
南部へ続く道を遥かに見やって、岩手の里に泊まる。小黒崎、みづの小島を過ぎて、鳴子の湯から尿前(しとまえ)の関にかかり、出羽の国へ越えようとする。この道は旅人のまれな所なので、関守に怪しまれ、ようやくのことで関を越した。大山を登るうちに日はすでに暮れたので、国境の番人の家を見つけて、宿を求めた。三日のあいだ風雨が荒れて、どうしようもない山中に逗留する。一句。蚤や虱に責められ、枕もとでは馬が尿をする。そんな宿りである。主人の言うには、「ここから出羽の国へは大山を隔てて、道も定かでないから、道案内の人を頼んで越えるがよい」と。それならばと人を頼むと、屈強の若者が反り脇差を腰に横たえ、樫の杖を携えて、我々の先に立って行く。今日こそ必ず危ない目にあう日に違いないと、つらい思いをしながら後についていった。主人の言葉にたがわず、高い山は深々と茂って一羽の鳥の声も聞こえず、木の下闇は茂り合って、夜道を行くようである。雲の端から土が降ってくるような心地がして、篠の中を踏み分け踏み分け、水を渡り、岩につまずき、肌に冷たい汗を流して、最上の庄に出た。あの案内した男が言うには、「この道では必ず何か起こるものですが、無事にお送りできて幸いでした」と。喜んで別れていった。あとで聞いてさえ、胸がとどろくばかりである。
尾花沢
尾花沢で、清風という者を訪ねた。彼は富んだ者だが、志は卑しくない。都にも折々通って、さすがに旅の情けを知っているので、幾日も引きとめて、長旅をいたわり、さまざまにもてなしてくれた。ここでの句。この涼しさをわが宿として、ゆったりとくつろぐ。這い出してこい、蚕室の下で鳴くひきがえるよ。眉掃きの姿を思わせる、紅の花よ。曾良も詠んだ。蚕を飼う人たちの姿は、古代さながらの素朴さだ。
立石寺
山形領に、立石寺という山寺がある。慈覚大師の開基で、とりわけ清らかで静かな地である。一見するがよいと人々が勧めるので、尾花沢から取って返した。その間、七里ばかりである。日はまだ暮れない。麓の宿坊に宿を借りておいて、山上の堂に登る。岩に巌を重ねて山とし、松や柏は年を経て、土も石も古びて苔がなめらかに覆い、岩上の院々は扉を閉じて、物の音ひとつ聞こえない。崖をめぐり、岩を這って仏閣を拝むと、すぐれた景色はひっそりと静まりかえって、ただ心が澄んでゆくのだけが感じられる。一句。なんという静けさだろう。蝉の声だけが、岩にしみ入ってゆく。
最上川
最上川を舟で下ろうと、大石田という所で日和を待つ。ここには古い俳諧の種がこぼれ落ちていて、人々は忘れられぬ昔の花の盛りを慕い、蘆笛のひと声のような素朴な心をなごませながら、この道を手探りして、新風と古風の二つの道に踏み迷っている。しかし導いてくれる人がいないのだからと請われて、やむをえず一巻を残した。このたびの旅の風流は、こんなところにまで及んだのである。最上川はみちのくから出て、山形を上流とする。碁点、隼などという恐ろしい難所がある。板敷山の北を流れて、果ては酒田の海に入る。左右から山が覆いかぶさり、茂みの中に舟を下す。これに稲を積んだのを、稲舟というのであろう。白糸の滝は青葉の隙間隙間に落ち、仙人堂は岸に臨んで立つ。水はみなぎって、舟は危うい。一句。五月雨を集めて、最上川のなんと早いことか。
羽黒
六月三日、羽黒山に登る。図司左吉という者を訪ねて、別当代の会覚阿闍梨に謁見した。南谷の別院に泊めてもらい、細やかな憐れみの情をもって、もてなされた。四日、本坊で俳諧の会を催した。発句。ありがたいことだ。この南谷では、風が残雪の香りを運んでくる。五日、権現に参詣する。この山を開いた能除大師は、いつの時代の人かわからない。延喜式に「羽州里山の神社」とある。書き写すとき、「黒」の字を「里山」と写し誤ったのだろうか。羽州黒山を中略して、羽黒山と言うのだろうか。「出羽」という国名は、鳥の羽毛をこの国の貢ぎ物として献上したからだと、風土記にあるとかいう。月山、湯殿を合わせて三山とする。この寺は江戸の東叡山に属して、天台止観の月が明らかに照り、円頓融通の法の灯がかかげ添えられて、僧坊は棟を並べ、修験の行法に励み、霊山霊地の験力を、人は貴び、かつ恐れる。その繁栄は長く続いて、めでたい御山と言うべきである。八日、月山に登る。木綿しめを身に引きかけ、宝冠で頭を包み、強力という者に導かれて、雲や霧の立ちこめる山気の中、氷雪を踏んで登ること八里、さらに日月の通う雲の関に入るのかと怪しまれるほどで、息は絶え、身はこごえて、ようやく頂上に至れば、日は没して月が現れた。笹を敷き、篠を枕として、横になって夜明けを待つ。日が出て雲が消えたので、湯殿に下る。谷のかたわらに、鍛冶小屋というものがある。この国の鍛冶は霊水を選び、ここで潔斎して剣を打ち、ついに「月山」と銘を切って、世にもてはやされた。あの龍泉で剣を淬いだという故事さながらで、干将・莫耶の昔が慕われる。道をきわめようとする者の執心の、浅くないことが知られた。岩に腰かけてしばらく休むうち、三尺ほどの桜の、つぼみが半ば開いているのがあった。降り積もる雪の下に埋もれながら、春を忘れない遅桜の花の心がいじらしい。炎天の梅花が、ここに香るかのようである。行尊僧正の歌の哀れもここに思い出されて、いっそう感慨が深い。おおよそ、この山中のこまごまとしたことは、行者の法式として他言することを禁じている。よって筆をとどめて、記さない。宿坊に帰ると、阿闍梨の求めによって、三山巡礼の句々を短冊に書いた。涼しさよ。羽黒山に、ほのかに三日月がかかっている。雲の峰がいくつも立っては崩れて、そのあとに月の山がある。語ることを許されぬ湯殿の尊さに、袂を涙で濡らす。曾良も詠んだ。湯殿山、銭を踏んで行く道の涙よ。
酒田
羽黒を発って鶴が岡の城下、長山氏重行という武士の家に迎えられて、俳諧一巻を巻いた。左吉も一緒に送ってくれた。川舟に乗って、酒田の湊に下る。淵庵不玉という医師のもとを宿とした。ここでの句。あつみ山から吹浦へかけて見渡す、夕涼みのひとときよ。暑い一日を海に流し入れて、最上川は注いでゆく。
象潟
山や川、海や陸の風光を数々見尽くして、いまは象潟へと心をせかされる。酒田の湊から東北の方へ、山を越え、磯を伝い、砂を踏んで行くことその間十里、日の光がやや傾くころ、潮風が砂を吹き上げ、雨は朦朧として、鳥海山も隠れた。闇の中を手探りするようで、雨もまた趣が深いとすれば、雨上がりの晴れた景色もまた楽しみだと、漁師の苫屋に膝を入れて、雨の晴れるのを待った。その朝、空はよく晴れて、朝日が華やかにさし出るころ、象潟に舟を浮かべる。まず能因島に舟を寄せて、三年幽居の跡を訪ない、向こうの岸に舟を上がれば、「花の上漕ぐ」と詠まれた桜の老木が、西行法師の記念を残している。入り江のほとりに御陵があり、神功皇后の御墓という。寺を干満珠寺という。この地に行幸があったとは、まだ聞いたことがない。どういうことだろうか。この寺の方丈に座して簾を巻き上げると、風景は一目のうちに尽きて、南には鳥海山が天を支え、その影が映って入り江にある。西はむやむやの関が道を限り、東は堤を築いて秋田に通う道が遥かに続き、海は北に構えて、波の打ち入る所を汐越という。入り江の縦横は一里ばかり、面影は松島に通って、また異なる。松島は笑うようであり、象潟は恨むようである。寂しさに悲しみを加えて、土地のありさまが魂を悩ますかのようだ。ここでの句。象潟の雨に濡れるねむの花は、憂いに目を閉じた西施のようだ。汐越では、鶴が脛を波に濡らして立ち、海は涼しい。祭礼にあたって、曾良が詠んだ。象潟の神祭では、人々はどんな料理を食べているのだろう。低耳の句もある。漁師の家では、戸板を敷いて夕涼みをしている。岩の上にみさごの巣を見て、曾良が詠んだ。波は越えさせないという契りがあってのことか、みさごが波打ち際の岩に巣をかけている。
越後路
酒田の人々との名残を惜しんで日を重ね、やがて北陸道の雲に行く手を望む。遥かな道のりの思いに胸を痛めながら、加賀の府まで百三十里と聞く。鼠の関を越えると、越後の地に歩みを改めて、越中の国の市振の関に着いた。この間九日、暑さと湿気の苦労に心身を悩まされ、病も起こって、道中のことは記さない。文月の、七夕を明日に控えた六日の夜も、いつもの夜とは似ていない。荒海の向こうに佐渡が島が横たわり、その上に天の河がかかっている。
市振
今日は親しらず、子しらず、犬もどり、駒返しなどという北国一の難所を越えて疲れたので、枕を引き寄せて寝ていると、一間隔てた表の方に、若い女の声がふたりほど聞こえる。年老いた男の声も交って話すのを聞けば、越後の国新潟という所の遊女であった。伊勢参宮をするというので、この関まで男が送ってきて、明日は故郷に帰すその男に持たせる手紙をしたため、はかない言伝てなどをしているのである。白波の寄せる渚に身を漂わし、海人の子のように浮世を落ちぶれるところまで落ちて、定めない契りを重ねる、その日々の業因のなんとつたないことかと、物語るのを聞くともなく聞きながら寝入って、翌朝旅立とうとすると、我々に向かって、「行く先もわからない旅路の心細さが、あまりに不安で悲しいので、見え隠れにでもお跡を慕わせてくださいませ。僧衣をお召しのお情けに、大慈の恵みを垂れて、仏縁を結ばせてください」と涙を落とす。「不憫なことではあるが、我々はあちこちに滞在する所が多い。ただ、人の行くのにまかせてお行きなさい。神明の加護で、きっと恙なく着けるだろう」と言い捨てて出たものの、哀れさがしばらくやまなかった。一句。同じ一軒の宿に、遊女も寝ていた。萩と月のような取り合わせである。曾良に語ると、書きとどめてくれた。
加賀
黒部四十八が瀬とかいう、数知れぬ川を渡って、那古という浦に出た。擔籠(たこ)の藤波は、春でなくとも初秋の哀れとして訪ねるべきものをと人に尋ねると、「ここから五里、磯伝いに行って向こうの山陰に入るのですが、漁師の苫ぶきの家がわずかにあるばかりで、蘆の仮寝の一夜を貸す者などありますまい」とおどされて、加賀の国に入った。一句。早稲の香の中を分け入って行く。右は荒磯の、有磯海だ。
金沢
卯の花山、倶利伽羅が谷を越えて、金沢に着いたのは七月十五日である。ここに大坂から通ってくる商人、何処(かしょ)という者がいて、その旅宿に同宿した。一笑という者は、この道に打ち込んでいる評判がほのぼのと聞こえ、世に知る人もあったのだが、去年の冬に早世したといい、その兄が追善の会を催したので、詠んだ。塚よ、動いてくれ。私の泣く声は、そのまま秋の風だ。ある草庵に招かれて。秋は涼しい。それぞれの手で瓜や茄子をむいて、もてなしてもらおう。道中での吟。あかあかと、日は相変わらず照りつけるが、風はもう秋のものだ。小松という所で。小松とは、しおらしい名だ。その名のとおりの小さな松に、萩やすすきが吹かれている。
太田の神社
この地の太田の神社に参詣する。実盛の甲と、錦の切れがある。その昔、源氏に属していたとき、義朝公から賜ったものだとか。なるほど、ただの平侍の持ち物ではない。目庇から吹き返しまで菊唐草の彫り物に金をちりばめ、竜頭に鍬形を打ってある。実盛の討死ののち、木曾義仲が願状に添えてこの社に納めたこと、樋口の次郎が使者を務めたことなどが、まのあたり縁起に見えている。一句。むざんなことよ。その甲の下で、いま、きりぎりすが鳴いている。
那谷
山中の温泉に行く道すがら、白根が嶽を背後に見ながら歩く。左の山際に観音堂がある。花山の法皇が三十三所の巡礼を遂げられたのち、大慈大悲の像を安置なさって、那谷と名付けられたのだという。那智と谷汲の二字を分け取られたのだそうだ。奇石がさまざまに立ち、古松が植え並べられ、萱ぶきの小堂が岩の上に造りかけてあって、まことに尊い土地である。一句。石山の石よりもなお白く、秋の風が吹きわたる。
山中
温泉に浴した。その効能は、有馬に次ぐという。一句。この山中では、菊を手折って長寿を願うまでもない。湯の匂いそのものが、命を延ばしてくれる。宿の主人は久米之助といって、まだ少年である。彼の父は俳諧を好み、京の貞室がまだ若かった昔、ここに来たとき、風雅のことで恥をかかされ、京に帰って貞徳の門人となって、世に知られた。名を成したのちも、この一村では句の判詞の礼金を受け取らなかったという。いまとなっては、昔語りである。曾良は腹を病んで、伊勢の国長島という所に縁者がいるので、先立って行くことになり、句を書き置いた。行き行きて、たとえ倒れ伏すことになっても、それが萩の原の中でありたい。行く者の悲しみ、残る者のうらみは、連れ立った鳥が別れて、雲に迷うようなものである。私もまた詠んだ。今日からは、笠の書き付けを、笠に置く露で消すことにしよう。
全昌寺
大聖持の城外、全昌寺という寺に泊まる。まだ加賀の地である。曾良も前の夜この寺に泊まって、一句を残していた。夜もすがら、裏の山に秋風の音を聞いて過ごした、と。一夜の隔たりも、千里の隔たりと同じである。私も秋風を聞きながら衆寮に臥せば、明け方の空近く、読経の声が澄み、鐘板が鳴って、食堂に入った。今日は越前の国へと、心せわしく堂を下りるのを、若い僧たちが紙と硯をかかえて、階段の下まで追ってくる。折しも庭の柳が散っていたので、庭を掃き清めてから出て行きたいものだ、散る柳への礼として、と、とりあえずの体で、草鞋のまま書き捨てた。
汐越の松
越前との境、吉崎の入り江を舟に棹さして、汐越の松を訪ねる。ここには西行の一首が伝わる。夜もすがら嵐に波を運ばせて、枝から月の光をしたたらせている汐越の松よ、と。この一首で、数々の景色は言い尽くされている。もし一言でも付け加える者があれば、無用の指をもう一本立てるようなものだ。
天龍寺
丸岡の天龍寺の長老は、古いなじみなので訪ねた。また、金沢の北枝という者が、ちょっと見送るつもりで、とうとうここまで慕ってきた。所々の風景を見過ごさずに句に思い続け、折々に心を打つ作意を聞かせてくれた。いま、いよいよ別れるにあたって詠んだ。扇に句を書いて、それを引き裂いて分かち合う。名残の尽きない別れよ。
永平寺
五十丁山に入って、永平寺を礼拝する。道元禅師の御寺である。都の地、千里を避けて、このような山陰に跡を残されたのも、尊い理由があってのことだとか。
福井
福井までは三里ほどなので、夕飯をすませて出たが、たそがれの道は足もとがおぼつかない。ここに等栽という古い隠士がいる。いつの年だったか、江戸に来て私を訪ねてくれた。もう十年あまりも前のことである。どれほど老いさらばえているか、あるいは死んでしまったかと人に尋ねると、まだ存命で、どこそこにいると教えてくれた。町の中をひっそりと引き込んだ所の、みすぼらしい小家に、夕顔やへちまが生いかかり、鶏頭や帚木が戸口を隠している。さてはこの家だと門をたたくと、わびしげな女が出てきて、「どちらからおいでの道心の御坊ですか。主人はこのあたりの、何がしという者の所へ行きました。御用ならばお訪ねください」と言う。等栽の妻なのだろうと知れた。昔物語にこそ、こういう風情はあるものだと思いながら、やがて尋ね当てて、その家に二晩泊まり、名月は敦賀の湊でと、また旅立った。等栽も一緒に送ろうと、裾を妙な格好にからげて、道案内をすると浮かれ立った。
敦賀
ようやく白根が嶽が隠れて、比那が嵩が現れる。あさむづの橋を渡ると、玉江の蘆は穂に出ていた。鶯の関を過ぎ、湯尾峠を越えると、燧が城があり、帰る山に初雁の声を聞いて、十四日の夕暮れ、敦賀の津に宿を求めた。その夜、月はことに晴れていた。「明日の夜もこうでしょうか」と言うと、宿の主人は「越路の常として、明日の夜の晴れ曇りは測りがたいものです」と答えた。主人に酒を勧められて、それから気比の明神に夜参りした。仲哀天皇の御廟である。社頭は神さびて、松の木の間から月の光が漏れ入り、御前の白砂は霜を敷いたようである。その昔、遊行二世の上人が大願を発起されて、みずから草を刈り、土や石を担い、ぬかるみを乾かされたので、参詣の往来にわずらいがなくなった。古例は今も絶えず、代々の上人が神前に砂を担われる。「これを遊行の砂持ちと申します」と主人が語った。一句。月は清らかに澄んで、遊行上人の運んだ砂の上を照らしている。十五日、主人の言葉にたがわず、雨が降った。名月の夜だというのに、北国の日和は定めがたいものだ。
種の浜
十六日、空が晴れたので、ますほの小貝を拾おうと、種の浜に舟を走らせた。海上七里ある。天屋何某という者が、破籠や小竹筒などをこまやかに用意させ、下僕を大勢舟に乗せて出ると、追い風に乗って、またたくまに吹き着いた。浜にはわずかな海人の小家があるばかりで、わびしい法華寺がある。ここで茶を飲み、酒を温めて、夕暮れの寂しさは胸に迫るばかりであった。ここでの句。この寂しさは、あの須磨の秋にさえ勝る、浜の秋だ。波の寄せ返す間に、小貝に混じって、萩の花びらが塵のように散っている。その日のあらましは等栽に筆を取らせて、寺に残した。
大垣
露通もこの湊まで出迎えに来て、美濃の国へと連れだって行く。馬に助けられて大垣の庄に入ると、曾良も伊勢から来合わせ、越人も馬を飛ばせて、如行の家にみなが集まった。前川子、荊口父子、そのほか親しい人々が日夜訪ねてきて、生き返った者に会うかのように、喜んだり、いたわったりしてくれる。旅のもの憂さもまだ去らないうちに、長月六日になったので、伊勢の遷宮を拝もうと、また舟に乗って、出立の句を詠んだ。蛤の蓋と身が分かれるように、親しい人々と別れて二見へ旅立つ。折しも、秋も行こうとしている。
跋
枯淡なものも、艶なものも、力強いものも、はかなげなものも、このおくのほそ道を読み進めるうちに、覚えず立ち上がって手を打ち、また伏して深く胸に刻んだ。一方では、蓑を着てでも自分もこのような旅をしてみたいと思い立ち、一方では、座ったままで、まのあたりに奇景を味わう。こうして百般の情が、鮫人の涙の玉さながらに、この筆に込められている。なんという旅であろう。なんという器量の人であろう。ただ嘆かわしいのは、このような人がいかにもか弱げで、眉に霜の白さが置き添っていくことである。元禄七年初夏、素龍書。
