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演説
驚くべきもの
尊き師父たちよ、わたしはアラビア人の記録の中にこう読んだ。サラセン人アブダラが、この世界という舞台でもっとも驚嘆に値するものは何かと問われ、人間ほど驚くべきものは見当たらないと答えたという。この見解には、メルクリウスのあの言葉も同意する。「アスクレピオスよ、人間は大いなる奇跡である」。
通説では足りない
これらの言葉の理由を考えていたわたしには、人間の本性の卓越について多くの人が挙げる多くの論拠では、十分とは思えなかった。人間は被造物の仲立ちであり、上位の者たちと親しく、下位の者たちの王であること。感覚の鋭さ、理性の探究、知性の光によって、自然の解釈者であること。不動の永遠と流れゆく時間の中間にあり、ペルシア人の言う通り世界の結び目、いや婚姻の絆であり、ダビデの証言によれば天使よりわずかに低い者であること。
人間の条件
これらはたしかに大きなことだが、第一のものではない。すなわち、最高の驚嘆という特権を正当に自分のものと主張できるものではない。それなら、天使たち自身や至福なる天の合唱隊を、なぜもっと驚嘆しないのか。ついにわたしは理解したように思った。なぜ人間がもっとも幸いな、それゆえあらゆる驚嘆に値する生き物なのか。そして宇宙の序列の中で人間が引き当てた条件とはいったい何であり、それが獣だけでなく星々にも、世界を超えた知性たちにさえ羨まれるものなのかを。それは信じがたく、驚くべきことである。当然ではないか。まさにそのゆえに、人間は大いなる奇跡、まことに驚嘆すべき生き物と、正当に呼ばれ、またそう考えられているのだから。だがそれが何であるかは、師父たちよ、聞いてほしい。そしてあなたがたの人間らしさにふさわしく、好意ある耳でこのわたしの務めを許してほしい。
世界はすでに満ちている
すでに至高の父なる建築家である神は、われわれの目にするこの世界という家、神性のもっとも尊い神殿を、秘められた知恵の法則によって造り上げていた。天を超える領域を知性たちで飾り、エーテルの球を永遠の魂で生かし、下位の世界の、滓と澱のような部分をあらゆる種類の動物の群れで満たしていた。しかし仕事を終えたとき、造り手は、これほどの作品の理法を測り、その美を愛し、その大きさに驚嘆する者が誰かいてほしいと望んだ。それゆえ、モーセとティマイオスが証言する通り、すべてのものが完成したあとで、最後に人間を造ることを考えた。しかし原型の中には新しい子を象るもとがなく、宝庫の中には新しい息子に遺産として与えるものがなく、全世界の座席の中には、この宇宙の観想者が座る場所がなかった。すでにすべては満ちていた。すべては、最上、中間、最下の階層に分配されていた。しかし父なる力が最後の産みにおいて、力尽きたかのように衰えることはあってはならなかった。知恵が、必要な事柄において思案に窮してたゆたうこともあってはならなかった。恵み深い愛が、他の者たちにおいて神の寛大さを讃えるはずの者を、自分自身においてそれを責めるよう強いることもあってはならなかった。
アダムへの言葉
ついに至善の工匠は決めた。固有のものを何ひとつ与えられない者には、個々のものに固有であったすべてを共通に与えようと。そこで神は人間を、定まった形のない像の作品として受け取り、世界の中心に置いて、こう語りかけた。「アダムよ、われわれはおまえに、定まった座も、固有の姿も、特別な務めも与えなかった。それは、おまえが望む座、望む姿、望む務めを、おまえの願いのまま、おまえの判断のままに、持ち、所有するためである。他のものの本性は定められていて、われわれの定めた法則の内に閉じ込められている。おまえはどんな狭さにも閉じ込められず、わたしがおまえを委ねたおまえ自身の自由な裁量によって、自分の本性を自分で定めるであろう。わたしはおまえを世界の中央に置いた。そこから世界にあるすべてを、より楽に見渡せるように。われわれはおまえを天のものとも地のものとも、死すべきものとも不死のものとも造らなかった。それは、おまえが自分自身の、いわば自由で名誉ある造形者、形作る者として、自分の選んだ姿に自分を象るためである。おまえは下位のもの、すなわち獣へと堕落することもできる。上位のもの、すなわち神的なものへと、おまえの心の判断によって生まれ変わることもできる」。
あらゆる生の種
おお、父なる神の至高の寛大さよ。人間の至高の、驚嘆すべき幸いよ。望むものを持ち、なりたいものになることを許された者よ。獣は生まれるとともに、ルキリウスの言う通り、母の袋から、これから持つことになるものを携えてくる。最高の霊たちは、はじめから、あるいはそのすぐあとに、永遠の永遠にわたってなるであろうものになった。生まれる人間には、父はあらゆる種類の種と、あらゆる種類の生の芽を植えつけた。各人が育てたものが成長し、その人の中で実を結ぶ。植物的なものを育てれば草木になり、感覚的なものを育てれば獣になり、理性的なものを育てれば天の生き物になり、知性的なものを育てれば天使となり、神の子となる。そしてどの被造物の運命にも満足せず、自分の一性の中心へ退くなら、神とひとつの霊となり、すべての上に立てられた父の孤独な闇の中で、すべてに先んじるであろう。
カメレオン
このわれらのカメレオンに、誰が驚嘆しないだろうか。いや、そもそも他の何に、これ以上驚嘆するだろうか。アテナイ人アスクレピオスが、この姿を変え、自分自身を変容させる本性を根拠に、人間は秘儀においてプロテウスによって示されていると言ったのは、理由のないことではない。ここから、ヘブライ人やピュタゴラス派のもとで名高いあの変身の話が生まれた。
姿を変える伝承
ヘブライ人のより秘められた神学は、あるときは聖なるエノクを、彼らがマルアク・ハシェキナーと呼ぶ神性の天使に変え、あるときは他の者たちを他の神的な存在に変える。ピュタゴラス派は、罪深い人間を獣に変え、エンペドクレスを信じるなら、植物にまで変える。これをまねてマホメットは、神の法から離れた者は獣になるという言葉をしきりに口にした。まことにその通りである。植物を植物にするのは樹皮ではなく、鈍く何も感じない本性である。家畜を家畜にするのは皮ではなく、獣の、感覚的な魂である。天を天にするのは丸い物体ではなく、正しい理性である。天使を天使にするのは、肉体から離れていることではなく、霊的な知性である。もし誰かが腹に仕え、地を這う人間を見るなら、見ているのは灌木であって人間ではない。もし誰かが、カリュプソのような空想の空しい幻惑に目をくらまされ、くすぐるような誘惑に心をとろかされ、感覚に隷属しているのを見るなら、見ているのは獣であって人間ではない。もし正しい理性によってすべてを見分ける哲学者を見るなら、その人を敬え。それは天の生き物であって、地のものではない。もし肉体を知らず、精神の奥処に引きこもった純粋な観想者を見るなら、それは地の生き物でも天の生き物でもない。それは、人間の肉をまとった、より尊い神的存在である。
すべての肉
人間に驚嘆しない者がいるだろうか。モーセとキリスト教の聖なる書物の中で、人間があるときは「すべての肉」、あるときは「すべての被造物」という名で指されているのは理由のないことではない。人間は自分自身を、すべての肉の姿に、すべての被造物の性質に、自ら象り、造り、変容させるからである。それゆえペルシア人エウアンテスは、カルデアの神学を語るところで、人間には自分の生来の像はひとつもなく、外から来る付随的な像が多くあると書いている。ここからカルデア人のあの言葉が出た。エノシュ・フー・シヌイム・ヴェカンマー・テバオート・バアル・ハイ、すなわち人間は、多様で多形で、転々と変わる本性の生き物である。
獣に落ちないこと
しかし、これは何のためか。われわれが、なりたいものになるという条件のもとに生まれたからには、何よりもこのことに心を用いねばならないと理解するためである。すなわち、「栄誉のうちにありながらそれを知らず、獣と愚かな家畜に等しい者となった」と、われわれについて言われることのないように。むしろ預言者アサフのあの言葉、「おまえたちは神々であり、みな至高者の子らである」が言われるように。父のもっとも寛大な気前のよさを濫用し、神が与えた自由な選択を、救いのものから害のものへと、自分の手で変えてしまわないように。聖なる野心が心に入り込むように。中くらいのものに満足せず、最高のものにあこがれ、望めばできるのだから、それを得るために全力で努めるように。地上のものを卑しみ、天のものを軽んじ、ついには世界に属するすべてをあとに置いて、もっとも高い神性に隣り合う、世界を超えた宮廷へ飛んでいこう。そこでは、聖なる秘儀の伝える通り、熾天使、智天使、座天使が第一の位を占める。われわれも、譲ることを知らず、二番手に甘んじず、彼らの尊厳と栄光を競おう。望みさえすれば、われわれは彼らにいささかも劣らぬ者となるであろう。
熾天使・智天使・座天使
しかし、どうやって、いったい何をすることによってか。彼らが何をし、どんな生を生きているかを見よう。その生をわれわれも生きるなら、できるのだから、われわれはもう彼らの運命に並んだことになる。熾天使は愛の火に燃える。智天使は知性の輝きに光る。座天使は裁きの堅固さに立つ。したがって、活動的な生に身を捧げ、下位のものへの配慮を正しい吟味のもとに引き受けるなら、われわれは座天使の不動の堅固さに固められる。行為から離れて、作品の中に造り手を、造り手の中に作品を思いめぐらし、観想の閑暇の中で働くなら、われわれは智天使の光で四方に輝く。愛によって造り手ひとりに燃えるなら、焼き尽くす神の火によって、われわれはたちまち熾天使の姿に燃え上がる。座天使、すなわち正しい裁き手の上に、世々の裁き手である神が座す。智天使、すなわち観想者の上に、神は飛び、いわば卵を抱くようにこれを温める。主の霊は水の上を運ばれる。わたしの言うのは天の上にある水であり、ヨブのもとで夜明け前の讃歌をもって主を讃える水である。熾天使、すなわち愛する者である人は、神のうちにあり、神はその人のうちにある。いやむしろ、神とその人はひとつである。座天使の力は大きい。それを裁くことによって得る。熾天使の崇高さは最高である。それを愛することによって得る。
智天使の光
しかし、知らないものを、どうして裁いたり愛したりできようか。モーセは自分の見た神を愛した。そして民の中で裁き手として執り行ったのは、先に山の上で観想者として見たことであった。したがって中間にいる智天使が、その光によってわれわれを熾天使の火へと準備させ、同時に座天使の裁きへと照らしてくれる。これこそ第一の知性たちの結び目、パラスの階級、観想哲学の主宰者である。これをわれわれはまず競い、求め、そして把握しなければならない。そこから愛の頂へと引き上げられ、また、行為の務めへと、よく教えられ、備えられて降りていくためである。だがもし智天使の生を手本にわれわれの生を形作るべきなら、その生がどんなもので、どんな性質か、彼らの行為は何で、彼らの仕事は何かを、目の前に、手元にそろえておくことは、骨折りに値する。しかしこれは、肉であり、地にあるものを思うわれわれ自身の力では得られない。そこで古の父祖たちのもとへ行こう。彼らはこれらのことについて、自分に身近で親しいものとして、もっとも豊かで確かな証言をわれわれに与えてくれる。選びの器である使徒パウロに尋ねよう。第三の天にまで高められたとき、智天使の軍勢が何をしているのを見たのかと。彼はディオニュシオスを解釈者として、こう答えるであろう。彼らは清められ、次に照らされ、最後に完成されるのだと。
三つの学び
したがってわれわれも、地上で智天使の生を競い、道徳の学によって情念の衝動を抑え、弁証術によって理性の闇を払い、無知と悪徳の汚れを洗い落とすようにして魂を清めよう。情念がやみくもに荒れ狂ったり、理性が軽率にときに狂ったりしないように。それから、よく整えられ、浄められた魂を自然哲学の光で満たそう。最後に神的な事柄の認識によって魂を完成させるためである。
ヤコブの梯子
そしてわれわれ自身で足りると思わないために、族長ヤコブに尋ねよう。その像は栄光の座に刻まれて輝いている。もっとも賢いこの父は、下の世界で眠り、上の世界で目覚めながら、われわれに教えてくれるであろう。だが彼は比喩によって教える。彼らにはすべてがそのように起こったのである。大地の底から天の頂まで伸びる梯子があり、多くの段が連なって区切られていること。その頂には主が座し、観想する天使たちがそこを、代わる代わる上り下りしていることを。
魂の足と手
もし天使の生を志すわれわれも同じことをしなければならないなら、問おう。汚れた足で、あるいは不浄な手で、主の梯子に触れる者があろうか。秘儀の教える通り、不浄な者が浄いものに触れるのは禁じられている。だがこの足とは何か。手とは何か。たしかに魂の足とは、あのもっとも卑しい部分であり、それによって魂は、大地の土台のように、物質に寄りかかっている。すなわち養い育てる力、食物の力であり、欲情の火種、快楽的な軟弱さの師である。魂の手を、怒りの力と言ってはいけない理由があろうか。それは欲望の擁護者としてそのために戦い、砂塵と日ざしの下で略奪者として奪い取り、欲望は日陰で眠りながらそれをむさぼるのである。この手、この足、すなわち感覚的な部分の全体、そこには魂を、いわば首をねじ曲げて引きとめる肉体の誘惑が座している。それを、不浄で汚れた者として梯子から退けられないように、道徳哲学という生きた川で洗い清めよう。だが、ヤコブの梯子を行き来する天使たちの仲間になりたいなら、それだけでは足りない。段から段へ正しく進み、梯子の道筋から決して外れず、往復の行き来を果たせるよう、あらかじめよく整えられ、教えられていなければならない。言葉の術、すなわち理性の術によってこれを果たしたとき、われわれは智天使の霊に生かされ、梯子の段、すなわち自然の段を哲学しながら、中心から中心へとすべてを貫き、あるときは一なるものを、オシリスのように、ティタンの力で多へと引き裂いて降り、あるときは多を、オシリスの手足のように、ポイボスの力で一へと集めて上る。そしてついに、梯子の上にいる父の懐に憩い、神学の幸いにおいて完成されるのである。
ヨブとエンペドクレス
義人ヨブにも尋ねよう。彼は生に生み出される前から、生の神と契約を結んだ。至高の神が、自分のそばに仕える百万の者たちの中で、何を一番に望むのか、と。彼はきっと平和と答えるであろう。彼の書にこう読まれる通りである。「高き所に平和を造る方」。そして最高の階級の教えは中間の階級が下位の者たちに解き明かすのだから、神学者ヨブの言葉を、哲学者エンペドクレスにわれわれのために解き明かしてもらおう。彼はその詩が証言する通り、われわれの魂に二重の本性があることを、争いと友愛、あるいは戦いと平和によって示している。一方によってわれわれは天のものへと引き上げられ、他方によって地の底へと突き落とされる。その詩の中で彼は、自分が争いと不和に駆られ、神々から追われた狂人のように、深みへ投げ込まれていると嘆いている。
哲学が和平を結ぶ
師父たちよ、われわれの内の不和はまことに多様である。われわれは家の内に重い内乱を、内乱以上の戦いを抱えている。もしそれを望まず、もしわれわれを高く引き上げて主の高き者たちの中に立たせるあの平和を求めるなら、われわれの内でそれを鎮め、静めるのは哲学だけである。まず道徳哲学である。われわれの内なる人間が敵との休戦だけを求めるなら、それは多頭の獣のほしいままの突進と、獅子の争い、怒りと激情を打ち砕くであろう。次に、より正しく自分を顧みて、永遠の平和の安全を望むなら、道徳哲学はそこにいて、われわれの願いを気前よく満たしてくれる。両方の獣を殺し、いわば豚を屠って、肉と霊の間に、もっとも聖なる平和の、侵すことのできない契約を結ぶであろう。弁証術は、言論の衝突と三段論法のわなの間で不安にざわめく理性の騒ぎを静める。自然哲学は、落ち着かない魂をあちこちで悩ませ、引き裂き、傷つける意見の争いと対立を静める。だがそれを静めながら、こう思い出すよう命じる。ヘラクレイトスによれば自然は戦いから生まれ、それゆえホメロスからは争いと呼ばれたのだと。それゆえ自然哲学は、自分の中では真の安らぎと堅固な平和をわれわれに与えることができない。それは自分の女主人、すなわちもっとも聖なる神学の務めであり、特権である。自然哲学はそこへの道を示し、伴として導く。神学は遠くから、急いで来るわれわれを見て呼ぶ。「労苦する者よ、わたしのもとへ来なさい。来なさい、わたしがあなたたちを憩わせよう。わたしのもとへ来なさい。世界と自然があなたたちに与えることのできない平和を、わたしが与えよう」。
神の平和
これほど優しく呼ばれ、これほど親切に招かれたわれわれは、地上のメルクリウスのように翼ある足で、至福なる母の抱擁へと飛んでいき、望んだ平和を味わうであろう。もっとも聖なる平和、分かちがたい絆、心をひとつにする友愛。それによってすべての魂は、すべての知性の上にあるひとつの知性の中で、ただ調和するだけでなく、言いがたい仕方で、まったくひとつになる。これこそピュタゴラス派が全哲学の目的と言う友愛である。これこそ神が高き所に造る平和であり、天使たちが地に降りて善意の人々に告げ知らせた平和である。それによって人間が自ら天に上り、天使となるためである。この平和を、友たちに、われらの時代に願おう。われわれの入るひとつひとつの家に願おう。われわれの魂に願おう。それによって魂が神の家となるように。魂が道徳哲学と弁証術によって汚れを振り落とし、多様な哲学で宮廷の装いのように身を飾り、門の頂を神学の花輪で冠したあと、栄光の王が降り、父とともに来て、魂のうちに住まいを造るように。この偉大な客にふさわしい者であると示すなら、神の計り知れない慈しみのゆえに、魂は金色の衣、すなわち諸学の多様な彩りで織られた婚礼の衣をまとい、美しい客を、もはや客としてではなく花婿として迎える。そしてその花婿から決して離されないために、自分の民と父の家から離れることを望み、いや自分自身を忘れて、花婿の内に生きるために自分の内で死ぬことを望む。花婿の目には、その聖なる者たちの死はまことに尊い。わたしの言うその死とは、生の充満を死と呼ぶべきならばであるが、賢者たちはその思索こそ哲学の務めだと言った。
モーセの幕屋
モーセその人をも呼び出そう。彼は、天使たちがその蜜酒に酔う、神聖で言いがたい知性の泉の充満よりわずかに低いだけの者である。この尊い裁き手が、この肉体という荒野の孤独に住むわれわれに、こう法を定めるのを聞こう。「まだ汚れていて道徳の学を必要とする者は、民とともに幕屋の外、露天に住め。テッサリアの祭司のように、その間に身を清めよ。すでに品性を整えた者は、聖所に受け入れられても、まだ聖なるものに触れてはならない。まず弁証術の奉仕によって、勤勉なレビ人として、哲学の祭儀に仕えよ。それから自らも祭儀に許されて、哲学の祭司職において、あるときは上なる神の宮の多彩な、すなわち星々で飾られた宮廷の装いを、あるときは七つの灯で分けられた天の燭台を、あるときは獣皮の諸元素を観想せよ。そして最後に、神学の崇高さの功績によって神殿の奥処に受け入れられ、像の幕ひとつ隔てることなく、神性の栄光を味わえ」。モーセはたしかにこれをわれわれに命じ、命じながら教え、励まし、勧める。哲学によって、できる間に、来たるべき天の栄光への道をわれわれ自身に備えよと。
秘儀とソクラテスの熱狂
しかしまことに、モーセやキリスト教の秘儀だけでなく、古の人々の神学もまた、わたしが論じるために出てきたこれらの自由学芸の利益と尊厳を、われわれに示している。ギリシア人の秘儀で守られた入門者の段階は、ほかに何を意味するというのか。そこではまず、先に述べた、いわば清めの術である道徳の学と弁証術によって浄められた者が、秘儀を受けることを許された。その秘儀とは、哲学による、より秘められた自然の解釈以外の何でありえようか。そうして整えられた者に、ついにあのエポプテイア、すなわち神学の光による神的な事柄の観照が訪れた。こうした祭儀に入門したいと望まない者がいようか。人間のことすべてをあとに置き、運命の財を軽んじ、肉体を顧みず、まだ地上に生きながら神々の宴の客となり、永遠の蜜酒に濡れて、死すべき生き物でありながら不死の贈り物を授かりたいと望まない者がいようか。プラトンが『パイドロス』で歌ったあのソクラテスの熱狂に吹き込まれ、翼と足の櫂で、ここ、すなわち悪しき者のうちに置かれたこの世界から急いで逃れ、天のエルサレムへ全速力で運ばれたいと望まない者がいようか。師父たちよ、われわれは駆り立てられるであろう。ソクラテスの熱狂に駆り立てられるであろう。それはわれわれを精神の外に置き、われわれの精神とわれわれ自身を神の内に置く。もしわれわれの内に何かがあるなら、まず自分でそれを動かしておけば、たしかにその熱狂に駆り立てられる。道徳の学によって情念の力が、しかるべき釣り合いのもとに、音階に合わせて張られ、不動の協和をもって互いに響き合うなら、そして弁証術によって理性が律動に合わせて進むなら、われわれはムーサたちの熱狂に打たれ、天の調和を内なる耳で飲み干すであろう。そのときムーサたちの指導者バッコスが、その秘儀において、すなわち自然の目に見えるしるしにおいて、哲学するわれわれに神の見えないものを示し、神の家の豊かさでわれわれを酔わせる。その家の全体においてモーセのように忠実であるなら、もっとも聖なる神学が近づいて、二重の熱狂でわれわれを生かす。その神学のもっとも高い見張り台に引き上げられ、そこから在るもの、来たるべきもの、過ぎ去ったものを分かちがたい永遠によって測り、原初の美を仰ぎ見て、われわれは前者のポイボスの預言者、後者の翼ある愛する者となる。そしてついに言いがたい愛によって、虻に刺されたように、燃える熾天使のように、自分の外に置かれ、神性に満たされて、もはやわれわれ自身ではなく、われわれを造ったその方自身となるであろう。
デルポイの三つの戒め
アポロンの聖なる名は、その意味と隠れた秘儀を探るなら、この神が預言者であるに劣らず哲学者でもあることを十分に示している。これはアンモニオスが十分に論じたので、わたしがいま改めて扱う理由はない。しかし師父たちよ、デルポイの三つの戒めを心に浮かべてほしい。それは、作り物ではなく真のアポロン、この世に来るすべての魂を照らす方の、神聖でもっとも尊い神殿に入ろうとする者に、まさに必要なものである。あなたがたは見るであろう。それらがわれわれに教えるのは、いま論じている三つに分かれた哲学を全力で抱きしめよということにほかならないと。まずあのメーデン・アガン、すなわち「何事も過度にするな」は、道徳の学が扱う中庸の理法によって、すべての徳の規範と規則を正しく定めている。次にあのグノーティ・セアウトン、すなわち「汝自身を知れ」は、全自然の認識へとわれわれを励まし、促す。人間の本性はその自然の中間であり、いわば混ぜ合わせだからである。自分を知る者は、自分の内にすべてを知る。まずゾロアスターが、次いでプラトンが『アルキビアデス』で書いた通りである。最後に、自然哲学によるこの認識に照らされ、すでに神に近い者となったわれわれは、エイ、すなわち「汝は在る」と言って、神学の挨拶をもって真のアポロンに親しく、それゆえ幸いに呼びかけるであろう。
ピュタゴラスの戒め
もっとも賢いピュタゴラスにも尋ねよう。彼がとりわけ賢いのは、自分を賢者の名にふさわしいとは決して思わなかったからである。彼はまず、升の上に座るなと命じるであろう。すなわち、魂がそれによってすべてを測り、裁き、吟味する理性的な部分を、怠惰な無為でゆるめて失うな、弁証術の訓練と規則によって絶えず導き、目覚めさせよということである。次に、特に避けるべき二つのことを示す。太陽に向かって小便をするな。犠牲を捧げている間に爪を切るな。だが道徳の学によって、あふれる快楽の流れる欲望を排泄し、爪の切りくず、すなわち怒りの鋭いとがりと心のとげを切り落としたあとで、ついに祭儀、すなわち先に述べたバッコスの秘儀にあずかり、父であり導き手を当然のように太陽と呼ぶわれわれの観想に暇を持つことを、始めるであろう。最後に、雄鶏を養えと教えるであろう。すなわち、われわれの魂の神的な部分を、神的な事柄の認識という固い食物、天のアンブロシアで養えということである。これこそ、獅子、すなわちあらゆる地上の権力がその姿を恐れ、敬う雄鶏である。これこそ、ヨブのもとで知性を与えられたと読まれるあの雄鶏である。この雄鶏が鳴くと、迷っていた人間は我に返る。この雄鶏は朝の薄明に、朝の星々が神を讃える中で、日々それに唱和する。この雄鶏を、死にゆくソクラテスは、自分の魂の神性をより大きな世界の神性に結び合わせることを望みつつ、すでにあらゆる病の危険の外に置かれた者として、アスクレピオス、すなわち魂の医者に負っていると言った。
ゾロアスターの四つの川
カルデア人の記録も調べてみよう。彼らを信じるなら、同じ術によって死すべき者に幸いへの道が開かれていることが見えるであろう。カルデアの解釈者たちは、魂には翼があるというのがゾロアスターの言葉であったと書いている。翼が抜け落ちると魂は真っ逆さまに肉体へ落ち、翼がまた生えると上なる者たちのもとへ飛び戻る。弟子たちが、どうすれば翼のよく生えそろった、飛ぶ魂を得られるかと尋ねると、彼は言った。「翼を生命の水で潤せ」。さらにその水をどこから求めるのかと尋ねると、彼はこの人の常として、たとえで答えた。「神の楽園は四つの川で洗われ、潤されている。そこから救いの水を汲め。北から来る川の名はピションで、それは正しさを表す。西から来る川はギホンで、それは清めを意味する。東から来る川はヒデケルで、それは光を響かせる。南から来る川はペラトで、われわれはそれを敬虔と解することができる」。師父たちよ、心を向けて注意深く考えてほしい。ゾロアスターのこの教えは何を言おうとしているのか。まさにこれ以外ではない。道徳の学によって、イベリアの波のように、目の汚れを清めよ。弁証術によって、北の定規のように、目の視線を正しさへとまっすぐにせよ。それから自然の観想において、まだ弱い真理の光、いわば昇る朝日のゆりかごに耐えることに慣れよ。そして最後に神学の敬虔ともっとも聖なる神への礼拝によって、天の鷲のように、真昼の太陽のもっとも輝かしい光線を力強く耐え抜けと。これらはおそらく、まずダビデが歌い、のちにアウグスティヌスがより広く説いた、朝、昼、夕べの認識である。これこそ熾天使を一直線に燃え立たせ、智天使を同じく照らす、あの真昼の光である。これこそ、古の父アブラハムがつねに向かって旅していた、あの地方である。これこそ、カバラ学者たちとムーア人たちの教えが、不浄な霊の居場所はないと伝えた、あの場所である。そしてもし、より秘められた秘儀を、謎のもとにであれ公に持ち出すことが許されるなら、天からのにわかな転落がわれらの人間の頭をめまいで損ない、エレミヤの言う通り、窓から入った死が肝と胸をひどく傷つけたあとで、天の医者ラファエルを呼ぼう。彼は道徳の学と弁証術を救いの薬として用い、われわれを解き放つ。それから健康を取り戻したわれわれの内に、神の力ガブリエルが住むであろう。彼は自然の奇跡を通してわれわれを導き、いたるところで神の力と権能を指し示し、ついにわれわれを至高の祭司ミカエルに引き渡す。ミカエルは、哲学の軍役を勤め上げたわれわれに、宝石の冠のように、神学の祭司職の印を授けるのである。
哲学が侮られる時代
尊き師父たちよ、これらがわたしを哲学の研究へと励ましただけでなく、駆り立てたものである。もし、哲学の研究を、とりわけ君主たる人々において、あるいはそもそも中くらいの運に生きる人々において非難するのが常である者たちに答えるのでなければ、わたしはきっとこれを語らなかったであろう。いまや哲学すること全体が、われわれの時代の不幸であるが、名誉と栄光よりもむしろ軽蔑と侮辱のもとになっている。哲学はまったくすべきでないか、わずかな人だけがすべきだという、この有害で奇怪な思い込みが、ほとんどすべての人の心に入り込んでいる。あたかも事物の原因、自然の道、宇宙の理法、神の計画、天と地の秘儀を、目の前に、手元に、十分に探り尽くして持つことが、何の恩顧も得られず、何の利益も手に入らないなら、まったく無であるかのように。いや、こんなところまで来てしまった。ああ、嘆かわしい。知恵の研究を金のためにする者でなければ、もはや賢者とは見なされない。その結果、慎み深いパラスが、神々の贈り物として人々の間に滞在していながら、追い出され、はやし立てられ、口笛で嘲られ、愛する者も好意を寄せる者もいない。ただ彼女自身が、春をひさぐように、散らされた処女の代価としてわずかな駄賃を受け取り、汚れた金を恋人の金箱に運ぶのでなければ。
知るために知る
これらすべてを、わたしは最大の悲しみと憤りなしには語れない。この時代の君主たちについてではなく、哲学者たちについて言うのである。彼らは、哲学者には報酬も褒賞も定められていないから、哲学すべきではないと信じ、説いている。それこそ、この一点で自分が哲学者でないと示しているようなものではないか。彼らの全生涯が利得か野心に置かれているので、真理の認識そのものを、それ自体のために抱くことがない。わたしは自分にこれを認めよう。この点で自分を讃えることを少しも恥じない。わたしは哲学するために以外のどんな理由でも哲学したことがない。わたしの研究から、わたしの夜なべの仕事から、どんな報酬も実りも、心の耕しと、わたしがつねに何よりも望んできた真理の認識のほかには、期待もしなかったし求めもしなかった。わたしはつねにそれを熱望し、深く愛してきたので、私的、公的な事柄への配慮をすべて捨てて、観想の閑暇に自分のすべてを委ねた。そこから、嫉妬する者たちのどんな中傷も、知恵の敵たちのどんな悪口も、これまでわたしを引き離すことができなかったし、これからもできないであろう。哲学そのものがわたしに教えた。外からの判断よりも自分の良心に拠ること、そして、悪く言われないかよりも、自分が何か悪いことを言ったりしたりしないかを、つねに考えることを。
三つの非難
尊き師父たちよ、わたしは知らないわけではなかった。このわたしの討論そのものが、善き学芸を愛し、もっとも尊いご臨席によってそれを飾ろうとされたあなたがたすべてには歓迎され、喜ばれるのと同じくらい、他の多くの人々には重く、煩わしいものになることを。そしてわたしの企てを、これまでに非難し、いまも多くの名目で非難する人々がいることも知っている。善く清く徳へ向かってなされることは、不正に誤って悪徳へ向かってなされることよりも、少なからず、いや多くの、吠えかかる者を持つのが常である。ある人々は、こうした討論の仕方全体と、学問について公に論じ合うこの制度そのものを認めない。それは学識を得るためよりも、才知と学問を誇示し、見せびらかすためだと言い張る。ある人々は、この種の練習そのものは認めるが、わたしにおいては決して認めない。わたしがこの年齢で、つまり二十四歳になったばかりで、キリスト教神学の崇高な秘儀について、哲学の最高の論題について、知られていない学問について、もっとも名高い都市で、もっとも学識ある人々の広い集まりで、使徒の元老院で、討論を申し出る大胆さを持ったからである。別の人々は、わたしが討論することは認めるが、九百の問いについて討論することは認めようとしない。これは無用で野心的であるばかりか、力を超えたことだと言い立てる。わたしが公言する哲学がそう教えたのなら、わたしはこれらの反論にすぐ降参したであろう。そしていまも、哲学の教えに従って、われわれの間に設けられたこの討論が、口論や罵り合いのためだと信じるなら、答えなかったであろう。だから、誹謗し、挑発しようとする意図はすべて退け、プラトンが神々の合唱隊からつねに遠いと書いた嫉妬を、われわれの心からも立ち去らせよう。そして、わたしが討論すべきかどうか、またこれほど多くの問いについて討論すべきかどうかを、友として吟味しよう。
公の討論
まず、公に討論するこの慣習を非難する人々には、多くを言うつもりはない。この罪は、罪と見なされるとしても、もっとも優れた博士たちよ、この務めを最高の賞賛と栄光のうちに幾度も果たしてきたあなたがたすべてだけでなく、プラトンとも、アリストテレスとも、あらゆる時代のもっとも認められた哲学者たちとも、わたしに共通だからである。彼らには確かなことであった。自分たちが求める真理の認識に達するためには、討論の練習をできるかぎり頻繁に行うことに勝るものはないと。体操によって身体の力が強くなるように、疑いなく、この学問の闘技場においては、心の力がはるかに強く、はるかに生き生きとしたものになる。わたしは思う。詩人たちが歌ったパラスの武具も、ヘブライ人がバルゼル、すなわち鉄を賢者の象徴だと言うのも、この種のもっとも高貴な競い合いが、知恵を得るためにきわめて必要であることを示している以外ではないと。おそらくそれゆえにカルデア人も、哲学者となる者の誕生図において、火星が水星を三角の相で見ることを望むのである。もしこうした会戦を、こうした戦いを取り去れば、哲学はすべて眠たく、居眠りしたものになるかのように。
二十四歳の弁護
だがわたしがこの務めに力不足だと言う人々に対しては、弁護の道がより難しい。自分は力が足りていると言えば、慎みがなく自分を過大に思う者の、力が足りないと認めれば、無謀で思慮のない者の烙印を受けそうだからである。見てほしい。わたしがどんな窮地に落ち、どんな立場に置かれているかを。自分について、罪なしには約束できない。その一方で、まもなく、罪なしには果たしそこなうこともできないのである。おそらくヨブのあの言葉、「霊がある、霊はすべての者の内にある」を挙げることもできよう。テモテとともに「誰もあなたの若さを侮ってはならない」と聞くこともできよう。だが自分の良心から、より真実にこう言おう。われわれの内に偉大なものも特別なものも何ひとつない。わたしが学びを好み、善き学芸を熱望する者であることは否定しない。しかし学者の名は、自分に引き受けも、主張もしない。だから、これほど大きな重荷を肩に負ったのは、自分の弱さを自覚していなかったからではない。この種の戦い、すなわち学問の戦いには、負けることが利益になるという特別な性質があると知っていたからである。だからこそ、もっとも弱い者であっても、この戦いを避けないだけでなく、自ら進んで求めることが、正当にできるし、またそうすべきなのである。負けた者は勝者から恩恵を受けるのであって、害を受けるのではない。彼は勝者によって、より豊かになって、すなわちより学識ある者となり、次の戦いへの備えをより整えて家に帰るのだから。この希望に励まされて、わたしは弱い兵士でありながら、すべての中でもっとも強く、もっとも勇敢な者たちと、これほど重い戦いを決することを少しも恐れなかった。それが無謀であったかどうかは、わたしの年齢からよりも、戦いの結果から、誰であれ、より正しく判断できるであろう。
九百の問い
残るは第三に、提出された事柄の数の多さに腹を立てる人々に答えることである。まるでこの重荷が彼らの肩にのしかかるかのように。この労苦は、どれほど大きくても、わたしひとりが汲み尽くすべきものであるのに。他人の勤勉に限度を設けたがり、キケロの言う通り、大きければ大きいほどよい事柄において、ほどほどを求めるのは、たしかに不作法で、あまりに気難しい。要するに、これほど大きな企てにおいて、わたしは失敗するか、果たすかのどちらかしかなかった。もし果たすなら、十の問いで果たせば賞賛されることが、九百の問いで果たしたときには罪とされる理由が、わたしには分からない。もし失敗するなら、わたしを憎む人々には責める理由が、愛する人々には弁護する理由があるであろう。これほど重く、これほど大きな事柄において、乏しい才能と少ない学識の若者がしくじったのは、非難よりも許しに値するからである。いや、詩人の言う通り、「力が足りなくても、大胆さはたしかに賞賛となる。大きな事柄においては、望んだだけで十分である」。われわれの時代に、レオンティノイのゴルギアスをまねて、九百どころか、あらゆる学芸のあらゆる問いについて討論を申し出るのを常とし、しかも賞賛されている人が多いのなら、なぜわたしが、多くではあるが定まった限られた問いについて討論することを、罪なしに許されないのか。
どの学派にも誓わない
しかしこれは無用で野心的だと彼らは言う。だがわたしは、これは無用であるどころか必要なことだったと主張する。彼らもわたしと一緒に哲学の方法を考えてみれば、不本意ながらも、まったく必要だったと認めざるをえない。哲学者の学派のどれかに身を捧げた人々、たとえばいま最も多く手に取られるトマスやスコトゥスに与する人々なら、少数の問いの討論でも、自分の学説を試すことができる。だがわたしは、誰の言葉にも誓わず、哲学のすべての師に自分を注ぎ、すべての書を調べ、すべての学派を知るように、自分を仕立てた。だからそれらすべてについて語らねばならなかったので、もし一つの学説の擁護者として他を後回しにすれば、それに縛られていると見られかねなかった。それぞれについては少ししか出さなくても、全体について同時に持ち出すものは、きわめて多くならざるをえなかった。嵐が運ぶところへどこへでも旅人として運ばれることを、誰もわたしにおいて責めないでほしい。古の人々はみな、あらゆる種類の著作を開き、読める注解は何ひとつ読まずに通り過ぎないことを守ったのである。とりわけアリストテレスがそうで、そのために彼はプラトンからアナグノーステース、すなわち読む人と呼ばれた。そしてまことに、ひとつの柱廊か学園の中に自分を閉じ込めるのは、狭い心である。すべてをまず親しく知った者でなければ、すべての中から自分のものを正しく選び取ることはできない。加えて、それぞれの学派には、他と共通でない何か際立ったものがある。
それぞれの学派
哲学が最後に伝わったわれわれの側から始めよう。ヨハネス・スコトゥスには生き生きとして精細なものがある。トマスには堅固で均整のとれたものが、エギディウスには磨かれて正確なものが、フランキスクスには鋭く尖ったものが、アルベルトゥスには古風で広く大きなものが、ヘンリクスには、わたしの見るところ、つねに崇高で尊ぶべきものがある。アラビア人では、アヴェロエスに確固として揺るぎないものが、アヴェンパケとアルファラビウスに重厚で熟慮されたものが、アヴィケンナに神的でプラトン的なものがある。ギリシア人では哲学は総じて輝かしく、とりわけ純粋である。シンプリキオスでは豊かで多量、テミスティオスでは優雅で簡潔、アレクサンドロスでは一貫して学識があり、テオプラストスでは重々しく練り上げられ、アンモニオスでは滑らかで魅力的である。プラトン派に目を向けるなら、少数を挙げるだけにするが、ポルピュリオスでは事柄の豊かさと多様な宗教を楽しむであろう。イアンブリコスでは、より秘められた哲学と異邦人の秘儀を敬うであろう。プロティノスには特別に驚嘆すべき何かがあるというのではなく、彼はあらゆる面で驚嘆すべき者として自らを示す。神的なことを神的に、人間的なことを人間をはるかに超えて、学識ある曲折した語り口で語る彼を、プラトン派の人々は汗を流してやっと理解する。より新しい人々は省こう。アジア的な豊饒にあふれるプロクロス、彼から流れ出たヘルミアス、ダマスキオス、オリュンピオドロス、その他大勢である。これらすべての人々には、あのト・テイオン、すなわち神的なものという、プラトン派に固有の象徴がつねに輝いている。
すべての知を持ち寄る
加えて、もしより真実な学説を攻撃し、善き主張を才知の中傷でもてあそぶ学派があるとしても、それは真理を強めるのであって弱めるのではない。動きに揺さぶられた炎のように、それを燃え立たせるのであって消すのではない。この理由に動かされて、わたしは、ある人々が望んだように一つの学説だけではなく、あらゆる種類の学説の主張を公の場に持ち出そうと思った。多くの学派のこの照合と、多様な哲学の討論によって、プラトンが書簡で述べたあの真理の光が、高みから昇る太陽のように、われわれの心により明るく射し込むためである。ギリシア人とアラビア人の哲学者を省いて、ラテン人の、すなわちアルベルトゥス、トマス、スコトゥス、エギディウス、フランキスクス、ヘンリクスの哲学だけを扱うことに、何の意味があったろうか。すべての知恵は異邦人からギリシア人へ、ギリシア人からわれわれへ流れてきたのだから。こうしてわれわれの側の人々は、哲学の方法においてつねに、異国の発見に立脚し、他人のものを磨くことで自分には十分だと考えてきた。プラトン派の学園を呼び寄せずに、ペリパトス派と自然について論じることに、何の意味があったろうか。プラトン派の教えは、神的な事柄についても、アウグスティヌスの証言によれば、すべての哲学の中でつねにもっとも神聖なものと見なされてきた。そしてわたしの知るかぎり、多くの世紀を経て、わたしによっていま初めて、妬みを招く言い方は避けたいが、討論の吟味のもとに公の場に持ち出されたのである。他の人々の意見を、どれほど多くあるにせよ扱ったとしても、もしわれわれが賢者の饗宴に会費を持たずに出るように、自分のもの、自分の才知が生み、練り上げたものを何も持ち寄らなかったとしたら、何の意味があったろうか。セネカの言う通り、注解だけから知るのは、まことに卑しい。まるで祖先の発見がわれわれの勤勉の道を閉ざしたかのように、まるでわれわれの内で自然の力が産み疲れ、真理を証明するのでなくとも、せめて遠くからでも示唆するものを、自分からは何ひとつ生めないかのように。農夫が畑の、夫が妻の不毛を憎むなら、たしかに、魂と結ばれ、添えられた神的な知性は、実りのない魂をそれだけ強く憎むであろう。そこからはるかに高貴な子孫が望まれるのだから。
自分で考えたこと
それゆえわたしは満足せず、共通の学説のほかに、メルクリウス・トリスメギストスの古の神学について多くを、カルデア人とピュタゴラスの教えについて多くを、ヘブライ人のより秘められた秘儀について多くを加えた。さらに、自然と神的な事柄について、われわれ自身が見出し考えたきわめて多くのことを、討論すべきものとして提出した。
プラトンとアリストテレスの一致
われわれが第一に提出したのは、プラトンとアリストテレスの一致である。これは多くの人が以前から信じてきたが、誰も十分には証明していない。ボエティウスはラテン人の間でこれを行うと約束したが、彼がつねに行おうとしたことを、ついに行ったとは見られない。シンプリキオスはギリシア人の間で同じことを公言したが、約束するだけ実行してくれていたならよかったのに。アウグスティヌスも『アカデミア派論駁』で、きわめて精緻な論証によって同じことを、すなわちプラトンとアリストテレスの哲学が同一であることを証明しようと試みた人が少なくなかったと書いている。同じく文法家ヨハネスは、プラトンがアリストテレスと食い違うのは、プラトンの言葉を理解しない人々のもとでだけだと言いながら、その証明は後世に残した。われわれはさらに、スコトゥスとトマスの見解が、またアヴェロエスとアヴィケンナの見解が、食い違うと考えられていながら一致するとわれわれが主張する、多くの箇所を加えた。
新しい七十二の命題
第二に、アリストテレス哲学とプラトン哲学の両方においてわれわれ自身が考え出したことを、そして七十二の新しい自然学と形而上学の学説を置いた。これを身につけた人は、わたしの思い違いでなければ、そしてそれはまもなくわたしに明らかになるが、自然と神的な事柄について提出されたどんな問いでも、学校で読まれ、この時代の博士たちが奉じる哲学で教えられるのとは、はるかに異なる仕方で解くことができるであろう。師父たちよ、わたしが最初の年々に、まだ若い年齢で、ある人々が言い立てるには他人の注解を読むのがやっとの年齢で、新しい哲学を持ち出そうとすることに驚くよりも、むしろそれが守りきれるなら讃え、論破されるなら非難すべきである。そして最後に、われわれのこの発見とわれわれの著作を判定しようとするのだから、著者の年齢ではなく、それらの功績か欠点をこそ数えるべきである。
数による哲学
さらにそれとは別に、われわれが持ち込んだもうひとつの新しいもの、数によって哲学する方法がある。これは古いもので、古の神学者たち、とりわけピュタゴラス、アグラオペモス、ピロラオス、プラトン、そして初期のプラトン派が守ったものである。だが他の輝かしいものと同じく、この時代には後世の人々の怠慢によって廃れ、その痕跡さえほとんど見出せない。プラトンは『エピノミス』に、すべての自由学芸と観想の学の中で、第一の、もっとも神的な学は数える学だと書いている。また、なぜ人間はもっとも賢い生き物なのかと問うて、こう答えている。「数えることを知っているからである」。アリストテレスもこの見解を『問題集』で述べている。アブマサルは、すべてを知る者とは数えることを知る者だというのが、バビロニア人アヴェンゾアルの言葉であったと書いている。これらは、もし数える術として、いま商人がもっとも巧みなあの術を理解するなら、決して真ではありえない。プラトンもそれを証言し、この神的な算術を商人の算術と解さないよう、はっきりした声でわれわれに注意している。それほど高く称えられるこの算術を、わたしは多くの夜なべの研究の末に探り当てたと思うので、この試みを行うために、自然学と神学の中で主要と見なされる七十四の問いに、数によって公に答えることを約束した。
二種類の魔術
われわれは魔術の命題も提出した。その中でわれわれは、魔術が二種類あることを示した。一方はすべて悪霊の働きと権威に拠るもので、まことに呪わしく、おぞましいものである。他方は、よく調べれば、自然哲学の完全な仕上げにほかならない。ギリシア人は両方を知っていて、前者は魔術の名に決して値しないとしてゴエテイア、すなわち妖術と呼び、後者を固有の特別な名でマゲイアと呼んで、いわば完全で最高の知恵とする。ポルピュリオスの言う通り、魔術師という語は、ペルシア人の言葉では、われわれの言う神的な事柄の解釈者であり礼拝者を意味するからである。師父たちよ、この二つの術の間には大きな、いや最大の隔たりと相違がある。前者はキリスト教だけでなく、すべての法、すべてのよく定められた国家が断罪し、呪う。後者はすべての賢者、天と神的な事柄を学ぶすべての民族が認め、抱きしめる。前者はもっとも欺瞞に満ちた術であり、後者はより高く、より聖なる哲学である。前者は空しく無益であり、後者は確かで信頼でき、堅固である。前者を修めた者は誰でもつねにそれを隠した。著者の恥辱と不名誉になるからである。後者からは、学問の最高の名声と栄光が、古来ほとんどつねに求められてきた。前者を熱心に学んだ哲学者、善き学芸を学びたいと望む人は、ひとりもいなかった。後者を学ぶために、ピュタゴラス、エンペドクレス、デモクリトス、プラトンが海を渡り、帰ってそれを説き、秘儀の中でもっとも重んじた。前者は、どんな理屈でも証明されないように、確かな著者によっても証明されない。後者は、もっとも名高い親に誉れを与えられるように、とりわけ二人の創始者を持つ。ザモルクシス、これにヒュペルボレイオス人アバリスが倣った。そしてゾロアスター、ただしあなたがたがたぶん思う人ではなく、オロマゾスの子のゾロアスターである。両者の魔術が何であるかをプラトンに尋ねれば、彼は『アルキビアデス』で答えるであろう。ゾロアスターの魔術は神的な事柄の学にほかならず、ペルシアの王たちはそれによって子らを教え、世界という国家を手本として自分の国家を治めることを学ばせたと。また『カルミデス』で答えるであろう。ザモルクシスの魔術は魂の医術であり、それによって魂に節制が、ちょうど医術によって身体に健康がもたらされるように、もたらされるのだと。
自然の魔術
のちにこれらの足跡に、カロンダス、ダミゲロン、アポロニオス、ホスタネス、ダルダノスがとどまった。ホメロスもとどまった。彼が他のすべての知恵と同じくこの知恵も、そのオデュッセウスの放浪のもとに隠したことを、われわれはいつか『詩的神学』で証明するであろう。エウドクソスとヘルミッポスもとどまった。ピュタゴラスとプラトンの秘儀を探ったほとんどすべての人がとどまった。より新しい人々の中で、これを嗅ぎつけた者としてわたしは三人を見出す。アラビア人アルキンドゥス、ロゲリウス・バコン、パリのギレルムスである。プロティノスも、魔術師が自然の僕であって細工師ではないことを示す箇所で、これに触れている。このもっとも賢い人はこの魔術を認め、確言し、もうひとつの魔術を忌み嫌って、悪しき霊たちの祭儀に呼ばれたとき、自分が彼らのもとへ行くよりも、彼らが自分のもとへ来るほうが正しいと言った。まことにその通りである。前者は人間を邪悪な権力に従属し隷属する者にするが、後者は人間をそれらの君主、主人にするからである。要するに前者は術の名も学の名も自分に要求できない。後者はもっとも高い秘儀に満ち、もっとも秘められた事柄のもっとも深い観想と、ついには全自然の認識を包み込む。後者は、神の恵みによって世界に撒かれ、蒔かれた力を、いわば隠れ場から光へ呼び出しながら、自ら奇跡を行うというよりも、奇跡を行う自然に勤勉に仕える。後者は、ギリシア人がより的確にシュンパテイアと呼ぶ宇宙の共感を、内側までより深く探り、諸本性の相互の知り合いを見通して、ひとつひとつのものにその生来の固有の誘い、魔術師のイユンゲスと呼ばれるものをあてがい、世界の奥、自然の懐、神の貯蔵庫と秘所に隠れている奇跡を、自らが細工師であるかのように公に取り出す。そして農夫が楡に葡萄を添わせるように、魔術師は地を天に、すなわち下位のものを上位のものの賜物と力に、添わせて結婚させる。それゆえ前者が怪異で有害であるのと同じだけ、後者は神的で救いに満ちたものに見える。とりわけこの理由による。前者は人間を神の敵に隷属させて神から引き離すが、後者は神の業への驚嘆へと人間を奮い立たせ、その驚嘆には、傾き寄る愛と信仰と希望がもっとも確実に従うからである。神の驚くべき業の絶え間ない観想ほど、宗教と神への礼拝を進めるものはない。いま論じている自然魔術によってそれをよく探り尽くすなら、われわれは造り手への礼拝と愛へと、より熱く駆り立てられ、こう歌わずにいられなくなる。「天は満ち、全地はあなたの栄光の威光に満ちている」。魔術についてはこれで十分としよう。これを述べたのは、知らない者にはいつも吠えかかる犬のように、理解しないものをしばしば断罪し、憎む人が多くいることを知っているからである。
カバラ
次に、ヘブライ人の古の秘儀から掘り出し、神聖で普遍の信仰を強めるためにわたしが持ち込んだものに移る。これらが、それを知らない人々から、でっちあげの戯言や行商人の作り話と思われないように、わたしはすべての人に理解してほしい。それが何で、どんな性質のもので、どこから求められ、どんな、どれほど名高い著者によって確かめられ、どれほど奥深く、どれほど神的で、ヘブライ人の執拗な中傷に対して宗教を守るために、われわれの側の人々にどれほど必要なものであるかを。
モーセの秘義
ヘブライ人の名高い博士たちだけでなく、われわれの側のエズラ、ヒラリウス、オリゲネスも書いている。モーセは山の上で、五つの書に記して後世に残した律法だけでなく、律法のより秘められた真の解き明かしをも、神から受けた。そして神から命じられた。律法は民に公にせよ、だが律法の解釈は文字に委ねず、広めもせず、ただヨシュアにだけ自ら明かし、ヨシュアは次々と後を継ぐ祭司の長たちに、深い沈黙の掟をもって明かせと。素朴な物語によって、あるときは神の力を、あるときは悪しき者への怒り、善き者への慈しみ、すべての者への正義を知り、神的で救いに満ちた戒めによって、善く幸いに生きることと真の宗教の礼拝へと教え導かれるなら、それで十分であった。だが、律法の外皮と言葉の粗い覆いの下に隠れたより秘められた秘儀、もっとも高い神性の秘密を民衆に公にするのは、聖なるものを犬に与え、豚の間に真珠を撒くこと以外の何であったろうか。
書かれなかった解釈
したがってこれを民衆から隠し、完全な者たちにだけ伝えることは、パウロが彼らの間でだけ知恵を語ると言う通り、人間の考えではなく神の戒めによるものであった。この慣習を古の哲学者たちはもっとも神聖に守った。ピュタゴラスは、死に際して娘ダマに託したわずかなもののほかには何も書かなかった。エジプト人の神殿に刻まれたスフィンクスは、秘儀の教えを謎の結び目によって俗なる群衆から侵されずに守るよう教えていた。プラトンはディオニュシオスに、最高の実体について何事かを書いて言った。「謎によって語らねばならない。手紙がもし他の人の手に渡っても、わたしがあなたに書くことが他の人に理解されないように」。アリストテレスは、神的な事柄を扱う『形而上学』の書は、公刊されていて、しかも公刊されていないと言っていた。これ以上何を言おうか。オリゲネスは、生の師イエス・キリストが弟子たちに多くのことを明かしたが、弟子たちはそれが民衆に共通のものとならないように、書き記そうとしなかったと主張している。これをもっとも強く確証するのはディオニュシオス・アレオパギテスである。彼は、より秘められた秘儀がわれわれの宗教の創始者たちによって、エク・ヌー・エイス・ヌーン・ディア・メソン・ロゴン、すなわち心から心へ、文字によらず、言葉を仲立ちとして注ぎ移されたと言う。まったく同じ仕方で、神から神の戒めによってモーセに伝えられたあの律法の真の解釈は、明かされるとき、カバラと呼ばれた。それはヘブライ人のもとでは、われわれの言う「受け取ること」と同じである。この教えが、文字の記録によってではなく、啓示の定まった継承によって、一人からもう一人へ、いわば相続の権利のように受け取られたからである。
エズラの七十書
だがヘブライ人がキュロスによってバビロンの捕囚から回復され、ゼルバベルのもとで神殿が再建されて、律法の修復に心を向けたとき、当時の会衆の長であったエズラは、モーセの書を訂正したあとで、はっきり悟った。イスラエルの民の流浪、殺戮、逃亡、捕囚のために、祖先が定めた、教えを手から手へと伝える慣習はもはや守れず、神から自分に許された天の教えの秘密は、注解の仲立ちなしには記憶が長くもたないので、やがて失われてしまうであろうと。そこで彼は決めた。当時生き残っていた賢者たちを召集し、各人が律法の秘儀について記憶にとどめていることを公の場に持ち寄り、書記を加えて七十の巻に編ませようと。サンヘドリンの賢者もおよそその数だったからである。師父たちよ、このことでわたしひとりを信じないように、エズラ自身がこう語るのを聞いてほしい。「四十日が過ぎたとき、至高者が語って言われた。おまえが先に書いたものは公に置き、ふさわしい者もふさわしくない者も読むようにせよ。だが最後の七十の書は保存し、おまえの民の賢者たちに伝えよ。それらの中には知性の鉱脈と、知恵の泉と、知識の川があるからである。そしてわたしはそのようにした」。これがエズラの言葉そのままである。これらがカバラの知識の書である。これらの書の中に、エズラは当然のごとく、知性の鉱脈、すなわち実体を超える神性についての言いがたい神学が、知恵の泉、すなわち可知的で天使的な形相についての厳密な形而上学が、知識の川、すなわち自然の事物についてのもっとも堅固な哲学があると、とりわけはっきりした声で宣言したのである。
キリスト教との一致
これらの書を、われわれがその下で幸いに生きているインノケンティウス八世のすぐ前の教皇シクストゥス四世は、最大の配慮と熱意をもって、われわれの信仰の公の益のためにラテン語に移させた。彼が世を去ったとき、すでにそのうちの三つがラテン人のもとに届いていた。これらの書はこの時代のヘブライ人の間で深い敬いをもって守られ、四十歳に達した者でなければ誰も触れることを許されない。わたしはこれらの書を少なからぬ費用で手に入れ、最大の勤勉と疲れを知らぬ労苦でもって読み通し、神が証人であるが、その中にモーセの宗教というよりもキリスト教の宗教を見た。そこには三位一体の秘儀が、そこには御言葉の受肉が、そこにはメシアの神性があった。原罪について、キリストによるその贖いについて、天のエルサレムについて、悪霊の堕落について、天使の階級について、煉獄について、地獄の罰について、われわれがパウロとディオニュシオス、ヒエロニムスとアウグスティヌスのもとで日々読むのと同じことを、わたしはそこに読んだ。哲学に関わる事柄においては、まさにピュタゴラスとプラトンを聞く思いがするであろう。彼らの教えはキリスト教の信仰にきわめて近く、われらのアウグスティヌスは、プラトン派の書が自分の手に届いたことを神に限りなく感謝しているほどである。
ヘブライ人との論争
総じて、われわれとヘブライ人の間には、カバラ学者たちの書によって彼らを論駁し、身を隠す片隅も残らないほどに言い負かすことができない論争は、ほとんどひとつもない。このことについて、わたしはもっとも重い証人として、きわめて学識ある人アントニウス・クロニクスを持っている。わたしが彼のもとで宴席にいたとき、彼は自分の耳で、この学に通じたヘブライ人ダクティルスが、三位一体についてキリスト教徒の見解に、足も手もそろえて降伏するのを聞いたのである。
オルペウスとゾロアスター
だがわたしの討論の項目を数え上げることに戻ろう。われわれはオルペウスとゾロアスターの詩の解釈についても、われわれの見解を持ち込んだ。オルペウスはギリシア人のもとでほぼ完全に読まれる。ゾロアスターはギリシア人のもとでは欠けが多く、カルデア人のもとでより完全に読まれる。両者は古の知恵の父であり創始者と信じられている。ゾロアスターについては、プラトン派の人々がつねに最高の敬いをもって頻繁に言及しているので省くとして、カルキスのイアンブリコスは、ピュタゴラスがオルペウスの神学を手本として持ち、それに合わせて自分の哲学を形作り、整えたと書いている。いや、ピュタゴラスの言葉が聖なるものと呼ばれるのは、ただそれがオルペウスの教えから流れ出たからだと人々は言う。そこから数についての秘められた教えと、ギリシア哲学が持った偉大で崇高なものはすべて、最初の泉から流れ出たように流れ出た。だが古の神学者たちの常として、オルペウスは自分の教えの秘儀を物語の覆いで織り込み、詩の幕で隠したので、その讃歌を読む人は、作り話と純然たる戯言のほかには何も隠されていないと思うであろう。わたしがこれを言ったのは、わざと仕組まれた謎のいぐさの間から、物語の隠れ場から、隠れた秘密の哲学の意味を掘り出すのに、わたしにどれほどの労苦と困難があったかを知ってもらうためである。とりわけこれほど重く、これほど隠されて探られていない事柄においては、他の解釈者たちの仕事と勤勉の助けがまったくなかったのだから。それでもわたしの犬たちは吠えた。わたしが数を誇示するために、些細で軽いものを積み上げたと。まるで、主要な学園が切り結ぶ、もっとも曖昧でもっとも争われている問いのすべてを、持ち込まなかったかのように。まるで、わたしをつつき、自分を哲学者の君主と信じているまさにその人々に、まったく知られず、試みられてもいない多くのことを、わたしが持ち込まなかったかのように。
見出しを増やさなかったこと
いや、わたしはその罪からあまりに遠く、討論をできるかぎり少ない項目にまとめるよう心を配ったのである。もし他の人々の常としているように、自分でそれを手足に分け、切り刻もうと思ったなら、たしかに数えきれない数に膨れ上がっていたであろう。他は措くとしても、九百のうちのひとつの学説、すなわちプラトンとアリストテレスの哲学の和解についての学説だけでも、わざとらしい多数を疑われることなく、六百、いやそれ以上の項目に展開できたことを知らない者がいるだろうか。他の人々が食い違うと考え、わたしが一致すると考えるすべての箇所を、ひとつひとつ数え上げるならば。だがたしかに、慎み深くもなく、わたしの気性にも合わないが、言おう。それでも言う。妬む者たちが、誹謗する者たちが、わたしに言うよう強いるからである。わたしはこの会戦によって、自分が多くを知っていることよりも、多くの人が知らないことを知っていると、信じさせたかったのである。
さあ、手を合わせよう
尊き師父たちよ、このことがいま事実そのものによってあなたがたに明らかになるように。もっとも優れた博士たちよ、帯を締め備えを整えて戦いを待つあなたがたの姿を、わたしは大きな喜びとともに見ている。そのあなたがたの望みを、わたしの演説がこれ以上引き延ばさないように。幸いと祝福のあらんことを。いわばラッパが鳴り響くままに、さあ、戦いを交えよう。
